2009年5月 4日 (月)

7年に一度と20年に一度の信州

 GWですが机に向かって忙しくしていたりします。連休中、予備校からの自宅課題がいくつか出されていて、明日から雨になりそうとのことなので今日、課題のうちの一つの風景スケッチに玉川上水へ行って来ました。いつも静物などなので珍しいです。良い季節だし、たまには外に出て視野を広げて描くことをさせようということなのかなと、思ったりしました。新緑の玉川上水はウォーキングやサイクリングにぴったりで、けっこうたくさんのグループが通ってゆきました。ときどきスケッチや写真を撮りに来ている人を見かける場所のせいか、描いていても通る人はあまり気にしないで通り過ぎてくれるので描きやすくて良いです。

今年の5月は長野の善光寺さんが7年に1度の御開帳なのと、うちの田舎の安曇野の穂高神社が20年に一度の御遷宮なのとが重なっていて、ぜひゆきたいと思っていたのですが、たぶん、ゆけられそうになく、とても残念です。穂高神社は安曇族の祖神、海運の神様をお祀りしているとのことです。安曇族は古代に九州の方から来た民族で、船で物資を運んだり貿易したりする海運業の民族だったと聞きました。だからその名残で山に囲まれた土地なのにお船祭りをしているそうです。最近知ったのですが、安曇族の出身は「漢倭奴国王」の金印が発見された九州の志賀島なのだそうで、穂高神社の本殿に敷き詰められた砂を御遷宮の際に新しくする儀式があるのだそうですが、その砂は志賀島から持ってきているものだということをはじめて知りました。里の宮は穂高にありますが、北アルプスの奥穂高岳の山頂に嶺宮があり、穂高岳の麓の上高地の明神池の入り口に奥宮があるそうです。穂高の里からはずいぶん離れています。日本の屋根と呼ばれる北アルプスの主峰の頂上に海運の神様をお祀りしているのは、そこからなら山の向こうの遠くの海を見れそうな感じがする場所だからなのかなと、想像してみたりしました。御祭神のお名前は「穂高見命(ほたかみのみこと)」というのですが音の響きからも高い場所を暗示しているようなちょっと関係ありそうなものに思えました。綿津見神(わたつみのかみ)の子なので天照大御神の甥になるみたいです。安曇という地名の近くには志賀という地名があることが多いということを何かで読んだことがあって、どんな意味なんだろうと、不思議に思ったりします。安曇野の北には志賀高原、滋賀県には安曇川、九州の志賀島に豪族の安曇氏、などとのこと。そういうことを知らない頃に訪れて以来、私は滋賀県が好きな場所の一つになっているのですが、DNAにも何か関係しているのかな、なんて、ちょっと思ったりもしました。でも、祖父の話では、うちの家は穂高が湖か何かの水の底にあった頃、水が引けて一番最初に降りてきて住んだということだったので、それが安曇族が九州から来た以前のことだったら、うちは安曇族ではなさそうってことになるし、(だって、祖母は平村の平家ですし、竹内の家は奈良の方から移り住んだ家らしいとのことなので)、なので、祖父の家は穂高が水の底にあったという古代のころから住んでいたことは確かみたいですが安曇族かどうかは聞いてみないとわからないってことかもです。

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2009年4月29日 (水)

花の笠の灯篭

 爽やかな空気、明るい太陽、良いお天気です。何年か同じ所に住んでいて先日、初めて、近くの地域のお祭りの風習を見ました。一週間ぐらい前から提灯がたくさん掲げられていて、お祭りがあるんだなと思っていたのですが、夜通りかかったら、朝にはなかったのに、通りの家々の門ごとに木の棒の先に紅白の花で作った笠をつけた灯篭が立っていて、暗がりに行儀良く並んで灯がともっている様はなんだか昔々にタイムスリップしたみたいで良い雰囲気でした。こんな風習があるなんて知らなくて、いつもなにげなく歩いていた通りで一見、もう昔や風習などを感じられないように見えたその地域にちゃんと歴史や風習が続いているを見ることができて、ちょっと見直した感じがしました。「八雲神社」のお祭りらしいということぐらいでどういうものなのかは知らないのですが地域が一丸となっている感じでしたし、花の笠の灯篭、よい雰囲気でした。ずっと続いて欲しいと思える感じです。

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2009年4月20日 (月)

もう新緑の季節

 この間まで桜が咲いていたなと思っていたのに、気が付いたらもう新緑がきらきら美しくなってきていました。風もさわやかで、藤の淡い紫色の房をゆらしたりしているのも見かけます。うちのベランダにあるチベットアヤメが何年かぶりに花を咲かせました。何年も咲かなかったから咲いているのを見つけたときは嬉しかったです。いくつかある鉢の中にスミレがどこからかやってきて勝手に咲いていて、意外なところにひょこっと咲いたりしているのをみかけて嬉しいです。いまのところどうも3種類のスミレがうちのベランダにあるみたいで、葉っぱが広めの種類のものはこの間終わり、先週あたりから葉っぱの細い紫のちょっと濃い目のが咲きだし、今週になって白い小さいのが咲き始めました。時間差で咲いてくれて、そのぶん長く花が楽しめてよいです。

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2009年4月 6日 (月)

春の香り

 桜が満開になりました。ほんの近所でも公園や学校の他にも敷地に大きな桜の木がある家やマンションなどが意外とあって、町内を少し歩いて楽しみました。桜のほかにも椿やチューリップ、菜の花や海棠、小手鞠などなど、どれも見頃になっていて、町なかに花の香りが漂っていることを感じました。今頃の植物からは「よし、これからやるぞ」っていうふうな、みずみずしい前向きな生命力のような気のようなものが感じられて、明るい良い季節です。

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2009年4月 1日 (水)

寒い四月

 四月になりました。早いです。桜も咲いているし、ベランダの鉢植えにも、どこからかやって来たスミレが咲いて嬉しいのですが、寒いです。農作物とかのこともあるだろうし、早く暖かくなって欲しいです。

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2009年3月25日 (水)

WBC優勝の風景

 昨日はWBCの決勝戦で日本の優勝が決まる日でした。その時間、外に出ていて、近所の商店街の電気屋さんの店先にはショーウインドウのテレビの前に集まって見ている商店街の人達の姿が見られたり、電車の中では携帯のワンセグで見ている人達が多く見られて、若いサラリーマンっぽい人の見ていた携帯をその隣に座っていたおじさんがのぞいて、「今、どうですか?」なんて、試合の様子を尋ねている光景に出合ったりして、なんだかほのぼのとした感じでいいなと思いました。

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2009年3月23日 (月)

こだわりを捨てると

 また、noteを書く間がかなりあいてしまいました。もう桜の花がぽつぽつと咲き始めているのを見かけるようになりました。気温もずいぶん春らしくなってきて、うちのベランダの植物も新芽が目立つようになってきました。何年かぶりに髪をまっすぐにしてもらいました。くせ毛で広がりやすい困った髪質で、二十代前半の頃は美容院にゆくと必ずいちおうストレートをかけてもらっていたのですが一週間ももたないので虚しくなって何年も切ってもらうだけにしていました。今度はどのくらいもつかわからないけれど、つるんつるんの手触り、まっすぐな今のうちに楽しんでおきます。

ここにきてなんとなく、自分のゆく道をまた考えたりしています。このままというのもあるのだろうけれど、その他にも全く違った歩く道があるかもと、ちょっと、考えたりします。こだわりを捨てれば選択支や可能性が広がるんだろうなということをふと、思いました。何が大事なのか、もう一回自分の頭の中を整頓しないとならないのかもです。何事でも、決まればそれに向かって一生懸命すればよいだけなのだけれど、そうできない決まらない時がなかなか苦しい時かもですね。

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2009年3月 1日 (日)

せっかくの魂

 こんな状態じゃ魂がかわいそうだと思った。せっかくの一つしかない自分の魂なのに、そう思うと、なんとかしなくちゃと、思えた。なんとかしなくちゃ、死にきれないような気がする。人にはそれぞれ役割があって存在しているのだから、脇役の人生ならそういう役割ということでよいのかもしれないけれど、魂は凛としてその脇役なり何なりの人生を生きなくてはと、思えた。じゃないと、魂がかわいそうなんだ。ちゃんとしたい。

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2009年2月15日 (日)

すっきり洗い流す涙

 泣きたい時は泣くといいと思う。泣いたって問題自体が解決するわけではないけれど、でも、泣くとそれまでの気持ちが少しすっきりする。ほんと、良く言われるけれど“洗い流す”って感じです。何も問題が解決するわけではなくても、話を聞いてもらうだけで少しすっきりしたりするのとちょっと似たところがある感じかも。外に出してしまうのは、一つの健康的な前進の仕方かも、なんて思いました。でも、気をつけなければならないのは、悲しみにとらわれてしまうことだと思う。自分のことで泣く場合、不幸の意識へいってしまってその意識にはまってしまって気分が落ちると、連鎖反応で良くない方へゆきやすくなってしまうと思う。気をつけなくちゃです。泣く時はもちろん悲しかったり、悔しかったりでも、泣いた後はすっきり前向きな、前進できる、そんなのがよいと思う。

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2009年2月12日 (木)

本質に沿ってみる

 仏教の因果応報を考えると、人はどんな人でも皆それぞれ意味があって存在しているってそのとおりだと思えます。それで、ひらめいたのですが、もしかしたら、人物自体は問題ではなくて、目を向けるべきはその現象なんじゃないか、目を向けるべきは本質の方であって、本質は現象の方なのでは、なんて思えた。人という存在が現象を引き起こすけれど、目を向けるべきはその人ではなく、起こった現象のほうにあると考えると、人はそのままで十分意味があるからそのままで良いし、変わってもそれも意味があるからそれも良いということになる。そう思うととても楽な気持ちになり、視界がパーっと広がる感じがしました。ほんとにほんとなのか、もうちょっと考えてみようと思います。

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